読者寄稿(我がゴルフ人生)T.K 様より

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 関東の名門コースである戸塚カントリー倶楽部に、2012年時点で41年間在籍されておられるT.K 様よりの、特別寄稿です。


我がゴルフ人生_戸塚カントリー倶楽部 <T.K 平成24年4月>

 私は、昭和15年生まれ(71歳)のT.K と申します。

 中学から社会人の3年間、のべ13年間のわたりアメリカン・フット・ボール一筋に青春を賭け、謳歌してきました。昭和38年K大学を卒業する頃は、ゴルフとは、一流企業の役員、企業経営者、資産家及びその子息がするもので、一般の我々には、高嶺の花のスポーツでした。

 その頃、父が、「 社会人の仲間入りするのだから、ゴルフをやらんか? 」と声を掛けてくれたのですが、男子のみがやる、アメリカン・フット・ボールにまだ夢中で、かつ誇りにもしていたので、一言のもとに、断ったのを、覚えています。

 思いがけずに、29歳(昭和46年)の時、戸塚CCの会員権を相続する事になり、これがゴルフを始めるきっかけになった訳です。私は、サウスポーだったので、この頃は、まだ左用の道具は少なく、時間をかけて苦労してハーフセットを手に入れ、少しずつ練習を始めました。30歳(昭和47年)の夏、休暇中に、戸塚CCでプレー中、8月15日の終戦記念日に、西アウト5番145ヤードで、ホールインワン!  その後、フットボールOB会の取手国際CCで、48をマーク、さらに、読売パブリックのロングホールでイーグルをだし、友人達から、素質充分とおだてられ、のめり込むはめになったと、いうわけです。

 しかし、仕事も多忙をきわめ、年間5から6回戸塚CCでラウンドして、時々練習場に行ってつないでいた時期もありました。ラウンドできる時は、一人で、出かけましたが、戸塚CCの諸先輩は、ルール、マナー、エチケットにはとても厳しく、今思えば、良き御指導を戴けた事に、心から感謝している次第です。

 その後、支店長、部長を経験する頃には、ゴルフも、盛んになり、接待ゴルフも加わり、戸塚CCでのプレー回数も増えました。ある時、ハンディキャップボードを見ていたら、親しい会員から、サウスポーのシングルプレーヤーがいないから、頑張ってみたらとささやかれ、その対策は、練習と競技会に出て腕を磨く事と、教えられました。しばらくして、ある日曜日の事です。ハンディキャップ委員長に、「 今日、一緒にラウンドしませんか? 」 と誘われました。終了後、「 明日からH9にします。」と、云われ、一瞬「 えっ! 」と思ったのですが、密やかな努力が実った事が、とてもうれしく、委員長に、お礼を申し上げました。

 この頃、次の目標に向け、道具探しを始めたのですが、左用のクラブは、相変わらず、本当に少なかったのです。ダイナミックゴルフ商会の宇野重吉氏を、紹介され、クラブ作りを、教わったのでした。 (H8・7・16 発行のゴルフダイジェストに、写真入りで、私のクラブ作りの腕前が紹介されました。)趣味と実益をかね、しばらくの間クラブ作りに熱中もし、これもまた、楽しい良き思い出です。

 戸塚CCでの41年間、苦楽と共に、経過しましたが、内15年間各委員会の委員を担当させて頂き、ゴルフ倶楽部の経営、コース管理の重要性、難しさ、競技会運営、食事、会員の倶楽部ライフの維持等、奥深さも勉強させて頂き、戸塚CCへの愛着と感謝が、更に深まったのです。

 最高はH7まで取得したのですが、学生時代の過激な運動の時の古傷、特に、肩と腰に激痛を覚えるようになり、ゴルフが出来ない状態になったのです。「 ゴルフを、止める! 」と心に決め、妻に伝えると、「今後、何を、生き甲斐にして過ごすの?」 「身体を、治してがんばったら!」と励まされ、約2年強、コツコツと、リハビリと基礎体力作りに専念しました。そのかいあって、復活する事が出来、今はゴルフを満喫しています。

 しかし近頃、一緒に、親しくプレーしていた人が、突然亡くなったり、近親者の介護、病気、年齢による運転不可等で、顔が見られなくなる友人が周りに出て来て、残念な事です。私自身、ゴルフの腕前も、飛距離も、年々落ち、侘しさを感じながらも、健康に恵まれ、今は、大勢の友人達と、楽しく語り合いながら、毎週ラウンド出来る日々に心から感謝して、過ごしています。


 T.K 様よりいただきました原稿は、原文通りに掲載させて頂きましたが、紙面構成の関係から行換えのみ、若干手を加えさせて頂きました。尚、T.K 様が在籍されておられます戸塚カントリー倶楽部の概略に付きましては、下記のURLよりご確認頂けます。