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元日本大学ゴルフ部監督 矢野正彦氏を訪ねて

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Mr.yano_tact-top.jpg 矢野正彦氏は、アマチュアゴルファーとして活躍する後、日本大学ゴルフ部監督として、数々の名選手を育成して来ました。
その後、ゴルフ場の再生にも取り組んで来られております。ながらくゴルフと関わってこられた氏の苦労話などを、2014年夏に伺って参りました。
 

【 ご経歴 】
1946年 東京生まれ。
1965年 日本大学入学。
1966年 東京読売CC クラブチャンピオン。
1968年 関東オープンセカンドベストアマチュア。
1969年 日本大学卒業(ゴルフ部副主将)。
1972年 日本大学ゴルフ部ヘッドコーチ就任。
1972年 戸塚CC クラブチャンピオン。
1974年 全米アマチュア選手権出場。
1998年 日本大学ゴルフ部監督代行就任。
2002年 日本大学ゴルフ部監督就任。
2006年 日本大学ゴルフ部監督辞任。
2007年 ニュー軽米カントリークラブ 取締役社長就任。
2011年 同社 退職。


編集長_何歳でゴルフを始められましたか。
矢野氏
15歳の時です。11ヶ月半でシングルに成りました。
京都に居た無名の東村史郎プロが、関東に出て来られたんです。その方と内田繁プロのお二方に教えて頂きましたが、そのお二方の影響が大きかったですね。

その他にも石井朝夫さんだったり、浅見緑蔵さんなどにも教わる機会が有りました。

編集長_お若い時にクラブチャンピオンになられたんですね。
矢野氏
日本大学へ入学してすぐだったと記憶していますが、 確か19歳の時に今の東京よみうりカントリークラブで、クラブチャンピオンになりました。

確か11ホールぐらい残して勝ったと思います。母親が(お昼から応援に行くから)と話していたんですが、来た時には終わっていたと思いますね。

編集長_大学生の時に東京よみうりCCの会員になられたんですか。
矢野氏
そうです。確か当時も入会条件は、厳しかったと思います。
当時、クラブの会員に成れたのは、正力オーナーが、将来日本の代表選手になってくれるのなら、と例外を認めて私の父親に話してくれたんです。

若い会員は、私だけだったと思います。大正力さん、正力亨オーナーのお父さんですが、何回かお目にかかり、(頑張れよ)と激励された事が印象に残っています。

編集長_学生時代に交通事故に遭われたそうですね。
矢野氏
当時、同級生が運転する車の助手席で、私は寝てしまっていたんです。気が付いたらトラックと橋げたに挟まれていました。

事故見物の野次馬からは、(死んでる、これはダメだ、死んでる)と言う声が聞こえて来ました。両親はその時、静岡県の川奈に居て、急遽病院へ駆けつけたのですが、病院からは(今晩もたない)と言われたそうです。

事故直後から私が若干意識を戻した時、目の前には沢山の電気がついていました。病院の手術台だったんですね。全く身動きが取れない状態でした。

複雑骨折が至る所にあり、腕も3ヶ所折れていました。今でも思い出しますが、兎に角水を飲みたかったんですね。うわごとで、水、水と言っていたと思います。

しかし水は命に差し障るので、綿で口を濡らす程度だった、と後に聞きました。そんな状態だったのですが、助かってしまったんです。

編集長_九死に一生を得るとは、まさしくこの事ですね。その後ゴルフを再開出来たのですか。
矢野氏
入院中に院長と母親の会話が、聞こえて来ました。院長曰く、生涯足は不自由な状態で、障害が残るだろう、との会話でした。

しかし、それを聞いて絶対に治って見せる、と思いましたね。当時、ゴルフに関しては、プロの試合よりアマチュアの試合の方が、多く新聞報道されていました。そこに仲間の活躍が、よく出ていたんです。

気持ちが高ぶりました。仲間には負けたくない、治らなければ、と思いました。退院後、すぐにゴルフの練習を再開しました。練習場へ行き、バンカーショット、アプローチなどから始めました。

しかし、痛くて、痛くて、言葉には言い表せなかったですね。それが今と成っては、リハビリに成ったのか、とも思いますね。

編集長_学生時代の事をもう少し、お聞かせ下さい。
矢野氏
一年先輩には、西田、沼沢さんがいました。西田さんがブラジルから帰って来て日大へ入り、沼沢さんは法政に居たんですが、日大へ転校して来たんです。

私がゴルフ部へ入部した時、山田健一君も一緒でした。 一年生でレギュラーを取れたのは、私と山田君だけでしたが、当時、日大はBブロックだったんです。

Bブロックで優勝して、春の入れ替え戦で優勝して、その年、秋の全日本でも優勝したんですが、そこからは28連勝ぐらいしたと思います。

編集長_ご卒業後、戸塚CCでクラブチャンピオンを取られました。
矢野氏
卒業して何年かたった1972年です。戸塚CCでは、クラブチャンピオンの決勝で、ワンハーフまわらない内に終わったと思います。

あの当時、糸巻ボールとスチールシャフトのドライバーで、私のスコアは60台でしたが、クラブのアマチュアでその様な選手は、居なかったと記憶しています。戸塚CCの西コース、昔は名瀬コースと言ったんですが、長かったですね。

編集長_全米アマにも出場されました。
矢野氏
開場はハワイのワイアラエCCでした。坂田君と倉本君と一緒でした。倉本君が未だ10代でした。

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編集長_倉本さんとの出会いは、いつですか。
矢野氏
彼との最初の出会いは、全日本ジュニアでした。
1972年から日大ゴルフ部のヘッドコーチをしていたんですが、竹田監督に言われたんです。(すごいのがいるから、見て来てくれ)と。それが倉本君の事だったんです。

全日本ジュニアの開場は、霞ヶ関CCでした。競技委員長の出渡さん曰く、(彼は見た事も無い将来性のある子だよ)との事でした。

ミドルホールで倉本君と挨拶をして、(頑張れよ)と言ったら、(頑張ります)と言ってくれました。
その次のショートホールです。ピンが左に立っていて、風が右から吹いていたんです。(矢野さん、これ風と喧嘩させますから)と言ったんです。高校生ですよ。
そしたらピンから7メートルぐらいに、ナイスオンです。

こいつは、すごいやつだな、とんでもない奴だな、と思いましたね。これが倉本君との最初の出会いでした。

編集長_倉本(取材時PGA会長)さんとの思い出も沢山有るかと思いますが。
矢野氏
そうですね。その後、倉本君は日大進学を決めてくれて、私の家に下宿していたんです。
ある時、九時に倉本君を練習場へ置いて、私は仕事が有るものですから、昼に一緒に食事をしようと約束をして別れたんです。

ところが私の仕事が長引いて、練習場に戻って来たのは2時30分だったんです。当然、倉本君は食事をしたものと思い、(今日は何を食べたの?)と聞いたんです。そうしましたら、(えっ、もう昼ですか?)と言うんですね。

驚きました。それだけ集中力が有るんですね。ですから数々の実績を残せたと思います。

編集長_その他には?
矢野氏
倉本君はある事件で、一年間謹慎をしていました。その間も私の家に居ましたから、通算彼は5年居た事に成ります。

私も裁判には2回出ましたが、ある意味、彼は被害者ですよ。この一件で彼は、マスターズに出れなくなってしまったのですが、残念でたまりません。

翌年、彼はプロテストに通り、ツアーへ途中から出場したのですが、その年5~6勝したと思います。忘れられない思い出です。

編集長_本格的に指導者の道を歩み出した経緯を教えて下さい。
矢野氏
倉本君が卒業する迄、日大ゴルフ部のコーチをしていたのですが、父親の事業が忙しくなり、私も手伝う事に成ったんです。倉本君の卒業と前後して、私もしばらくゴルフ部とは、離れる事に成ったのです。

そんなある日、突然、竹田監督から連絡が来たんです。(ゴルフ部を手伝って欲しい)と言われたんです。
長らく学生のゴルフから遠ざかっていましたので、福島の棚倉田舎倶楽部で行われる関東リーグを視察する事にしました。それは未だ引き受ける前だったんですが。
試合会場で偶然、東北福祉大の阿部君に遭ったんです。阿部君に、日大のコーチは何処に居ますか?と聞いたところ、(誰も来ていない)と言われたんです。過去にそんな事は、有りませんでしたね。

ハーフターンの時に、イアリングをしている選手と遭遇しました。私はびっくりして、阿部君に何処の選手か尋ねたんです。阿部君曰く、日大の選手だとの事でした。愕然とした私は、その場から竹田監督に連絡を取り、指導者の件を正式にお断りしました。

その後、私の知らない内に、竹田監督と奥様が、私の父親を訪ねて来た様なんです。或る日、私は父親に呼び出されて、(日大ゴルフ部の件、引き受ける様に)と強く言われて、返事は(ハイ)と答えるのが精一杯でした。

編集長_竹田監督はどの様な方だったんですか。
矢野氏
竹田監督は応援団のご出身なんです。確か、日大の応援団が体育会に成った、最初の応援団長だったと思いますね。
監督はゴルフをスポーツとして捉えて、日大で初めて体育会にしたと思います。

怖かったですよ。話は私の学生時代に戻りますが、挨拶一つにしても厳しかったです。例えば、多摩川での練習ですが、我々の対面では慶応のゴルフ部が練習をしていて、女子学生の応援が飛び交うのですが、私たちは挨拶の仕方から始まるんです。

挨拶の仕方がまずいと、うさぎ跳び一周ですよ。私は入学時、ゴルフ部とはこんな事もするのか、と驚いたものです。負けるのが嫌いな方でした。
ご本人はレッスンをしませんでしたから、兎に角、根性根性の連続でした。

編集長_監督業はいつ頃からですか?
矢野氏
2002年に私は監督に就任します。竹田監督が私の父親に会いに来られた当時より、監督の体調はすぐれなかったと思います。ですから私が竹田監督のお手伝いを始めた頃より、実質的には監督業をやっていた様に思います。

矢野東君が選手だった頃に、監督代行と形式的には成りました。

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編集長_監督業で努めてきた点は?
矢野氏
選手の保護者と会う事は、極力避けて来ました。その理由は、子供に大きな期待をかけている方が、ほとんどだったからです。
ご自分の子供に期待を寄せるのは、当然です。しかし、過度の期待は、子供に意欲を持たせるのでは無く、義務感や強制につながり、逆に子供の成長を阻害しますよ。

ある時、関東アマでチャンピオンに成った子が、私のところに泣きながら相談に来たんです。どうしたの?と聞いたら、(悪いスコアカードを見て、お父さんが2階から僕のクラブを放り投げ、二度とゴルフをするな)と言われた、と言うのです。

まあ、その時は私もその親と喧嘩するほどのいきおいで、話しましたね。ゴルフ部合宿では、選手全員を一人、一人部屋に呼んで、話をしました。話し出すとすと、泣き出す子も何名か居ました。親からのプレッシャーが、厳しくて大きいんですよ。

あなたには、こんなに沢山のお金を使っている、だから頑張って)と言われると、子供は委縮してしまうんですね。
子供には如何に意欲を持たせるか、そしてその意欲を上手にサポートして行ければ、子供はどんどん伸びて行く様に思いますね。

編集長_監督業で感じた点は?
矢野氏
勘違いしている親が、多かった様に思います。例えば、日大のゴルフ部に入れば、直ぐにでもプロゴルファーに成って、お金を稼げるとか。それは今も変わらない様に、思いますね。

自分は石川遼君の親の様になれる、横峯さくら さんの親の様になれる、と勘違いしてガン、ガンやっている人が多い様に思えて仕方ないです。可哀そうですよ、子供が。

まず、親の考え方を改める必要が有りますよ。ここを強調したいですね。親からのプレッシャーで、ゴルフを嫌いになる子供が出て来るのは、非常に残念です。

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編集長_監督業での思い出は?
矢野氏
思い出は沢山、沢山あります。先ほど倉本君の事はお話しましたが、思い出の一つとして、大山志保ちゃんの事は忘れられません。

彼女がアプローチイップスに成った事が有るんです。それを克服した事が、思い出ですね。
烏山城CCでの団体戦の時でした。彼女が80いくつか叩いて上がって来たのですが、(急に手が動かなくなった) と言うんです。

次から個人戦が始まりますから、困りました。コースの近くに私の後輩の家が有って、そこにはバンカーやアプローチ練習場が有るんです。急遽レギュラー陣を全員そこへ連れて行って、まず彼女にヘッドが動く練習をさせたんです。

通常の練習では問題なく出来る様になったのですが、肝心な事は、緊張感の中で出来るのか、どうか?連れて行ったレギュラー陣に、私は聞きました。(最近車を買った者は居るか?)と。そうしましたらK君が、手を上げたんですよ。

K君に車を持って来てもらって、志保ちゃんに、車越しにアプローチをしなさい、と言いました。(ぶつけたら親父に怒られます!)とK君が言うのですが、その時は私が弁償するよ、と言う事で納得してもらって始めました。

一球目、車にあたりました。幸い車に傷はつかなかったんですが、ヒヤヒヤもんでした。二球目から彼女は、車越しにポン、ポンとアプローチが出来る様に成ったんです。その後、個人戦で彼女は60台が出て、優勝しました。

編集長_監督をお辞めになり、ゴルフ場経営者と成られました。その経緯を教えて下さい。
矢野氏
或る日、大学の先輩から連絡が有って、(東北のゴルフ場を取得したので、その再建を願いたい)との事でした。当初、お断りしようと考えておりましたが、(借金は無いし、好きにやってもらって結構)と言われ、又、先輩の熱意を感じて受ける事にしたんです。

ゴルフ場は岩手県のニュー軽米カントリークラブです。

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編集長_着任して、ゴルフ場の状態はどの様だったんですか。
矢野氏
着任して2日目で、ゴルフ場の従業員の方が、近くのお寿司屋さんへ連れて行ってくれたんです。そこで従業員の方が、お寿司屋の大将へ、私を紹介してくれたんです。(今度、軽米へ来た責任者の矢野さんです)と。

そうしましたら、店内に居たお客さんから(なんだ、あの詐欺師のゴルフ場へ、又誰か来たのか)、と言われたんです。事情を知らない私は、びっくりしました。

そこで従業員の方から聞かされたのは、ゴルフ場には会員が約700名、守る会の方が2,000名ほど居るとの事でした。経営が代わりましたから、紛糾していたんです。
従業員の方から今度、総会が有るが参加しますか?と聞かれたので、当然、参加する事にしました。

編集長_初めての総会はどの様でしたか。
矢野氏
散々な事を言われました。非難のオンパレードでしたね。皆さんの意見が出尽くした頃に、自己紹介をさせて頂きました。これが初めての総会でした。

編集長_その後、どの様にしようと、お考えに成ったのですか。
矢野氏
先ず、あらゆる会に参加しようと決めました。総会、役員会とか。そしてこのゴルフ場を軌道に乗せるには、どの様にしたら良いのか、真剣に考えました。兎に角、地元の方々に愛されるゴルフ場にしなければ、と考えました。

それには社員が、同じ方向を向いてくれる事が、大切です。会員は2,500名は必要で、とりあえず2,000名に近づける必要が有りました。

編集長_再建の先ず一手を教えて下さい。
矢野氏
先ず、理事会の再建と、地元からの新理事長選出です。理事会は地元に縁の無い東京在住の方が多かったのですが、この構成を変えました。

地元の皆さんの意見を聞けば、金入さんと言う方の評判が非常に良い。もう私の中では、理事長を金入さんにお願いする方針で決めていたのですが、会員の方、ゴルフ場従業員に意見を求めたところ、(それは無理だ、受けて頂けないでしょう)との声が大半だったんです。

最初、私が金入さんへ電話連絡をするも、全く話す事さえ出来ませんでしたし、人を介して依頼するも会えませんでした。

或る日、私は早朝から金入氏の会社前で待機し、氏の出社時に是非お話を聞いて頂こうと、考えて居ました。全くのアポ無し、飛び込み営業みたいなものですよ。
そうしましたら、偶然にも出社して来た金入氏に、会う事が出来たのです。 玄関での立ち話だけでしたが。

その後、会社へ呼んで頂き、お話を聞いて頂く事も出来ました。その様なやり取りをする内に、食事をしたり、ゴルフをする関係が出来たのです。そして金入氏から(矢野君が社長をやっている間だけですが、理事長を受けますよ)と言って頂いた。

本当にうれしかったですね!

編集長_金入氏理事長就任の反響は、どの様なものでしたか。
矢野氏
金入氏に理事長を受けて頂いた事が、ゴルフ場再建のターニングポイントに成りました。金入氏が理事長に就任した事から、その影響で地元の有力な建設会社の方が、副理事長を受けて頂いたりと、流れが大きく変わって行くのが、手に取る様に解かりました。

会員も700人ほどから約1,800名へ、一挙に回復しました。一年半たった頃には、会員の方々より(矢野正彦を守る会)にするか、 などの冗談も言って頂ける様に成りました。

編集長_再建へ向けて、更なる一手は。
矢野氏
ニュー軽米CCは、岩手県のゴルフ場ですが、青森県との県境でも有るんです。来場者の80%は、八戸のお客様でした。

私は八戸市とタイアップする事が、とても重要だと考えました。そこで八戸市の子供たち、スポーツをする子供たちを支援する、と言う名目でゴルフ場から寄付をする事にしたんです。

これは、新聞やTVでも取り上げられ、反響が大きかったです。兎に角、地元の方々に愛されなければダメだと、考えておりましたから。

編集長_矢継ぎ早の変革で、従業員の皆さんの反響はどうでしたか。
矢野氏
私は常に物事を、チームとして考えています。一人で見る夢には限界が有りますから。ニュー軽米の再建でも、社員が同じ方向を向いてくれた事が、大きかったですね。

経営が交代した訳ですから、従業員の中には旧社長派の方もおりました。しかし多くの従業員が同じ方向を向いて歩きだした時に、やはり面白くなく思っていた人たちは、自然と辞めて行きましたね。
別に私が追い出そうとしなくても、居づらくなったんだと思います。

会社から大切にされていないと感じた従業員は、お客様に対する態度も、自然と良くないものに成ります。少ない従業員数ですから、皆で良くなって行こう、と言う方向性を打ち出せないと、モチベーションは下がりますよ。

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編集長_従業員の教育、人材の発掘と言う中で、支配人をどの様に決めたのですか。
矢野氏
支配人職を、従業員の村本さんにお願いしました。私は当初、社長職と支配人職を兼務しておりましたが、適当な人材が見つかった時には、速やかにその人物を新しい支配人にしなければ、と考えておりました。

私はゴルフ場に着任した時、従業員全員と話をしたんです。村本さんは当時、トイレ修理など水回りの仕事をしていました。どの様な動機で、ゴルフ場へ勤めるようになったのかを聞いたところ、(ゴルフが好きで、好きで、ゴルフ場へ勤務したら、もっと出来ると考えたから)、との返事でした。

前職を伺えば、市役所の水道課に居て、その後、博物館の館長も務めたとの事。村本さんは、人当たりが良く、如才ないというか、印象が良く話すとホットする感じの良い人でした。話していて疲れない方ですよ。

或る日、私は彼を呼んで支配人を命じました。4段階か、5段階のランクをいっぺんに上げてです。私は村本さんの詳しい経歴を知りませんでした。
聞くところによれば、村本家は地元で大変な名士一家で、お兄さんは建設会社の社長、村本さん自身も市長と面識が有り、簡単な挨拶程度で面会出来る関係との事でした。

編集長_理事長、支配人が決まりました。次はどなたですか?
矢野氏
忘れてはならない人物は、並岡料理長です。すごい男です。根性と勉強家で、上しか見ない人です。
見習い二人と本人の3人で、27ホールの来場者の食事を賄う訳ですから、大変です。しかし泣き言一つ言わない。朝の暗い内から出勤してきて、頭が下がりました。

ニュー軽米にはロッジが有るんですが、宿泊客に出す並岡料理長の料理には、皆さん驚きますよ。料理の素晴らしさからです。彼は芸術家ですね。

或る日、他ゴルフ場のオーナーが視察に来られて、ヘッドハンティングの話が有りました。報酬は大変高額だったと思います。その様な逸話の有る素晴らしい人物です。

ニュー軽米の食事は、東北6県で最高だと思っています。

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編集長_徐々に体制が整って来ました。やはりキーパー抜きにゴルフ場は語れないと思いますが。
矢野氏
そうですね。前、勤めていたキーパーが居たんですが、辞めてしまったので突如、中山君にやってもらう事にしたんです。彼は若かったですが、研究熱心で、勉強家です。

日が昇るのを待って、作業を始めています。グリーンに病気が発生しようものなら、自分の子供が病気になった様に、一生懸命やっていました。私が居た頃は、成りたてだったんですが、今はもう大ベテランだと思いますね。

編集長_コース改造もされたとの事ですが。
矢野氏
山を三つ、取りました。ニュー軽米CCの売りは、何と言っても水、すなわち池なんですね。しかしこれをさえぎるものが、多かったんです。

白樺コース8番ホールグリーン横の山を取りました。この結果、8番から9番へ向かうロケーションが良くなり、池とクラブハウスを見渡せる事に成ったんです。

白樺コース2番ホール右横の山を取りました。結果として池とクラブハウスが見える様に成り、景観がすこぶる良く成りました。

白樺コース9番ショートホール左横の山を取りました。結果として150ヤード程だった距離を185ヤードまで延ばす事が出来、印象に残るホールに出来ました。

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編集長_バンカーにもかなり手を入れた様ですね。
矢野氏
埋めたバンカーも多かったでんすが、新しく造ったバンカーも有りますね。クロスバンカーとかは、随分直しました。
特に白樺コース9番ショートホールのグリーン奥30ヤードに有ったバンカーは、年間に1回も入ったのを見た事も無い、と言うものでしたので無くしました。

ニュー軽米CCは、北東北3県の中でNo1だと言う自負が有ります。無駄なものも多く有りましたが、コースに関して言えば、素材が素晴らしかったんです。この点が大きかったですね。

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編集長_ニュー軽米CC時代もジュニアの育成には、力を入れられた様ですが、教えて下さい。
矢野氏
2008年の夏休みを利用してジュニア教室を開催しました。多くの子供にゴルフと言うスポーツを知って、好きになって欲しかったからです。
参加者の中で特に素質のある子供には、本人の気持ちと保護者の方のご理解のもと、(特別強化選手)に指定しました。

子供たちは、町内のゴルフ場社宅に、親元を離れて住み込んでゴルフに取り組みました。ほとんど費用負担の無い内容です。

素晴らしい女の子も居ました。ゴルフを始めて一年半で、岩手県のチャンピオンになってしまったんです。その後、東北エリアの大会でも上位に行き、日本ジュニアにも、日本女子アマにも出場出来たんです。
ルールなどそれほど教える機会が無かったので、本人も知らなかったと思いますが。その様な状態でも、短期間に才能が開花した一人でした。

編集長_3・11大震災時の事を教えて下さい。
矢野氏
その時、私は八戸市に居ました。冬場の集客対策として、スポーツバーとシュミレーションゴルフの出来る施設を、私は作ろうとしていました。

青森県で初めての施設でしたし、内容も素晴らしく、世界の50コースをラウンド出来るものでした。その施設が入るビルに居た時、やって来たのです。一生忘れられないですね。

壁に十何本もの亀裂が入りましたし、車が横揺れするのでは無く、 縦に上下動しているのを見るのは、初めてでした。
お客様と社員を直ぐに帰して、私も車で帰ろうとしたのですが、交差点の信号が消えて、様々な車が衝突しそうになって動かない状態でした。

何とか家にたどり着いたのですが、電気も水道も無い状態でしたので、車の中で3日間生活をしました。

編集長_ゴルフ場はどの様な状態でしたか。
矢野氏
ニュー軽米CCは被害が少なく、直ぐに営業出来る状態でした。しかし近隣のゴルフ場はダメでした。Hカントリークラブなどは、コース内にコンテナが入り込んでしまっていましたね。Mカントリークラブには醤油とかトイレットペーパーを届けました。

届ける道すがら、茫然と立ち尽くす子供を見た時には、言葉では表現出来ないものを感じましたし、街の臭いは何とも言えないものでした。

MカントリークラブとHカントリークラブの会員に付いては、会員待遇で受け入れる事にしたんです。そうしましたら、その年ニュー軽米CCの経営は、黒字になってしまったんです。別に全く意図したものでは、無かったんですが。

編集長_振り返れば、ゴルフ場の再建と言う目的を達したと、言えるのではないでしょうか。
矢野氏
そうですね。私は常に、物事を成し遂げ様とする時、チームとして考えます。ニュー軽米CCの再建も、人に恵まれました。素晴らしい人々との出会いが無ければ、ゴルフ場の再建も無かったと思います。

私は何時も考えます。今日在るのは、人に恵まれたからだと。

編集長_今後、又ゴルフ場再建に携わるお考えは?
矢野氏_そうですね。機会が有ったら考えたいですね。
編集長_本日はお忙しい中、長時間に渡り、誠にありがとう御座いました。

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